昭和天皇を最も悩ませた寬仁親王の皇籍離脱宣言 成城大教授・森暢平

昭和天皇を最も悩ませた寬仁親王の皇籍離脱宣言 成城大教授・森暢平
9/30(月) 17:07配信
サンデー毎日×週刊エコノミストOnline
https://news.yahoo.co.jp/articles/67640dc14764b1fb63fafe0c5182025ad8ba2c3a?page=1

◇社会学的皇室ウォッチング!/129 これでいいのか「旧宮家養子案」―第31弾―

 三笠宮家の寬仁(ともひと)親王(2012年逝去)が男系継承維持派を政治的にバックアップしていたことについて前回触れた。寬仁親王は、旧宮家の皇籍復帰について、「まったく違和感などありません」と述べているが、かつて自身が皇籍離脱宣言をして世間を騒がせたことはどう総括していたのだろうか。(一部敬称略)

『毎日新聞』(1982年4月24日)は、当時36歳の寬仁親王が「皇籍離脱を申し出ている」と伝えた。「宮中行事が忙しく、ライフワークとして取り組んでいる身障者問題等に全力が傾けられない」という理由である。

 この1週間前の4月17日午前2時、寬仁親王は宮内庁宮務課長の小川省三に電話をかけ、「皇室会議を開いて、皇族を辞める手続きを取ってくれ」と伝えた。酒に酔った上での電話だった。寬仁親王は当時、一晩でウイスキーのボトル1本をあけるなどアルコール依存症と言っていい状態だった。

 その1年半前、寬仁親王は、麻生セメント会長の娘、信子と結婚した。信子は政治家、麻生太郎の妹である。信子は82年4月21日午後6時55分、静養のため青森県の酸ヶ湯(すかゆ)温泉に到着した。しかし、宮家と連絡をとり、午後10時45分には東京にトンボ帰り。翌4月22日、宮内庁長官の富田朝彦が、宮邸に呼ばれ、寬仁親王から離脱の希望を伝えられた。

 皇室典範では、天皇の曽孫以下の「王」、および女性皇族は、15歳以上なら「意思」で皇族身分を離れることができる。しかし、天皇の子、孫までの「親王」は「意思」での離脱はできない。寬仁親王はメディアの力で、離脱を実現しようと画策した。親しかった毎日新聞宮内庁担当、畠山和久を呼んで、情報を流した。報道の翌日、寬仁親王は渋谷区広尾の日赤医療センターに入院した。入院は約2カ月に及ぶ。

 5月13日、衆院決算委員会で、社会党議員の質問を受けた宮内庁次長、山本悟は「世襲制度としての象徴天皇制」を維持するため、天皇に非常に近い皇族は皇籍離脱に制約を受けると明言した。

◇神宮前で人身事故 英国で「逮捕状」

 当時、寬仁親王は皇位継承順位第7位。三笠宮家の長男として宮家を継ぐことになっていた。宮家の継嗣についてどう考えていたのか。自分より年下の男子皇族は、天皇家の浩宮(現天皇)、礼宮(あやのみや)(現秋篠宮)および寬仁の2人の弟しかいなかった。離脱により皇位継承がいつか危うくなる可能性は考えなかったのか。福祉の仕事への情熱と、皇統の問題をどう天秤(てんびん)にかけたのか――。結局、離脱は断念される。

 もっとも、父親が山階宮家出身の筑波常治(ひさはる)(当時、早大助教授)はこの時、皇弟の宮家は一代限りで廃止すればいいという立場で、三笠宮家が永遠に続く議論にはくみしないと発言した(『週刊現代』82年7月17日号)。旧皇族でも意見は多様であるから、議論を呼んだのは意義深かったのかもしれない。

 寬仁親王は23年後、女性・女系天皇を認めるぐらいなら旧宮家復帰をと主張し、右派勢力と結び付いていく。そののちも過去の離脱発言に触れないまま、66歳で亡くなってしまった。

 若き日の寬仁親王は破天荒さで知られた。75年10月28日午前1時から3時、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」の特別DJを務め、「5回、結婚したい女性がいました。……すべてダメになったんだけど」「中学から……グレかかったようなことがあって、勉強なんてクソ食らえということになり……成績は最悪だった」「(大学4年生では)16科目も残っていました。……ボクは勉強をしなかったし、頭も良くなかった」と語っている。

 20歳だった66年9月15日午前10時50分、渋谷区神宮前で、自分の乗用車を運転していたところ、後方を注意せずにUターンしたため、オートバイに追突された。食品を配達中だった17歳の少年に左大腿骨(だいたいこつ)骨折の大けがをさせてしまった

 英オックスフォード大に留学中だった68年11月27日、駐車違反をし、警察官に反則切符を渡された。12月3日に、2ポンド(当時の日本円換算で約1700円)の支払通知書が発出されたが、オーストリアに約1カ月滞在していたので、出頭命令に気が付かなかった。69年1月7日、支払わなければ逮捕してもよいという権限が裁判所から警察に出されてしまい、日本のメディアは1月8日、「交通違反のため寬仁親王に逮捕状が出された」と報じた

◇ウーマン・リブは「くだらない」と批判

 それらは若き日の過ちだったのかもしれない。芸者遊び、スナックやバーの女性との付き合いは自ら公言し、スキャンダルとして報じられた。それもご愛敬なのかもしれない

 ただ、彼の女性観はいただけない。「我が国の近頃の若い女ども……のいっているウーマン・リブなどというくだらないブームは……もともとギブ・アンド・テークのルールを身体でも脳ミソでも知り得ていない我々の中でいったって始まらん」「懇談会の女性参会者の多くが、平然と、自分の考え方の中に、間違った平等思想やウーマン・リブ理論を入れているばかりか、信じて口に出す点を心配する」(『諸君!』73年7月号)。

 男尊女卑である。女性・女系天皇に反対する指向は、こうした思想傾向から発していると指摘されたとき、完全には否定できないだろう。

 2007年10月20日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、寬仁親王のインタビューを掲載する。「私は、近くの朝鮮学校の生徒と小競り合いをするような非行少年でした。私たちは、彼らとよく戦ったものです。学習院の制服を見ると彼らは私たちに向かってきました」。武勇伝を語るのはいいとしても、排外主義的行動を肯定的に述べるのは、皇族としていかがなものか。

 昭和天皇を最も悩ませたのは寬仁親王だと言ってよい。皇位継承者を多く確保したほうがよいと考える人がいる。だが、継承順位が下がれば下がるほど、モラルは低減し、皇室の尊厳も併せて低下することは、知っておいたほうがよい。

<サンデー毎日10月13日号(10月1日発売)より。以下次号>



(ヤフコメから)
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私と同意見の人が、ヤフコメおすすめ順の1ページ目に3つも登場した。この調子で行こう!(笑)



(記事の中の下線部)
(離脱騒ぎの1982年当時)
「自分より年下の男子皇族は、天皇家の浩宮(現天皇)、礼宮(あやのみや)(現秋篠宮)および寬仁の2人の弟しかいなかった」

当時は、高松宮様がややご高齢だったが存命で、まだ若い三笠宮、常陸宮の両ご当主が普通に健在、さらに寛仁と憲仁親王(のちの高円宮)、そしてナルとアーヤと後継男子が多数揃っていた。ナルとアーヤが若すぎて頼りなくても、「つなぎ」となる人材が揃っていた。当時を知らない若い世代が「そうなのか。後継者は3人しかいなかったのか」と勘違いしやすいように、職業文筆家が事実を歪曲して誘導した。

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「父親が山階宮家出身の筑波常治(ひさはる)(当時、早大助教授)はこの時、皇弟の宮家は一代限りで廃止すればいいという立場で、三笠宮家が永遠に続く議論にはくみしないと発言」

傍系宮家から順に切り捨てていくことは十分ありうるシナリオだが、不幸が続いて予定外に後継者が消滅してしまったとき、切り捨てた元皇族を皇族に復帰させて問題ないのかどうか、口で言うのは簡単だが、事前の制度設計がとても難しい。

たとえば、三笠宮家を廃宮したあと、「あの時もし三笠宮を廃宮していなければ天皇制が存続していたのに!」という事態が発生したとき、この先生は「違憲違法はいけません。天皇制は廃止です。無駄な議論は認めない」と言える覚悟があるのかどうか。私なら言えますが。まさか、コロっと意見を変えるとか(笑)。

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「寬仁親王は23年後(2005年)、女性・女系天皇を認めるぐらいなら旧宮家復帰をと主張し、右派勢力と結び付いていく」
「若き日の寬仁親王は破天荒さで知られた」。
「75年10月28日午前1時から3時、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」の特別DJを務め、「5回、結婚したい女性がいました。……すべてダメになったんだけど」
「中学から……グレかかったようなことがあって、勉強なんてクソ食らえということになり……成績は最悪だった」
「(大学4年生では)16科目も残っていました。……ボクは勉強をしなかったし、頭も良くなかった」と語っている」

趣味作りに邁進するばかりで、国民に関係あることをしているように見えないト◯ボ殿下と比べ、自ら出来が悪いことを認める宮様には、親しみが沸きますね(笑)。

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「20歳だった66年9月15日午前10時50分、渋谷区神宮前で、自分の乗用車を運転していたところ、後方を注意せずにUターンしたため、オートバイに追突された。食品を配達中だった17歳の少年に左大腿骨(だいたいこつ)骨折の大けがをさせてしまった」

良くないことだけれども、あとから苦情が再発しないよう、十分な補償をしたんでしょ。被害者本人がどのように感じているかは横に置いておいて、取りあえず法的には解決した。解決ってそういうことでしょ。死亡させたわけでもない。解決金をお手元金から支払ったか、税金を投入したのか、少し気になるが、基本線としては、おしまい。

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「英オックスフォード大に留学中だった68年11月27日、駐車違反をし、警察官に反則切符を渡された。12月3日に、2ポンド(当時の日本円換算で約1700円)の支払通知書が発出されたが、オーストリアに約1カ月滞在していたので、出頭命令に気が付かなかった。69年1月7日、支払わなければ逮捕してもよいという権限が裁判所から警察に出されてしまい、日本のメディアは1月8日、「交通違反のため寬仁親王に逮捕状が出された」と報じた」

カネを奪ったり、蹴ったり、刺したり、殺したりしたわけでなく、反則切符程度のことを騒ぎ立てると、現役の女性皇族についても多くのスキャンダルを指摘することができますよ。女性・女系論者の皆さんは、覚悟できているのでしょうか?(爆)

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「芸者遊び、スナックやバーの女性との付き合いは自ら公言し、スキャンダルとして報じられた。それもご愛敬なのかもしれない」
「我が国の近頃の若い女ども……のいっているウーマン・リブなどというくだらないブームは……」(『諸君!』73年7月号)。
「男尊女卑である。女性・女系天皇に反対する指向は、こうした思想傾向から発している」

寛仁親王は1946年生まれだから、5歳(1951年)、10歳(1956年)、15歳(1961年)、20歳(1966年)である。職場における男女関係を決定的に変えた男女雇用均等法改正は、ずっとあとの1986年である。

それ以前はどこへいっても男尊女卑が主流だったといって過言でないのだから、時代背景を無視して発言を短く刈り取るのは、特に若い読者を勘違いさせる目的の細工です。職業文筆家がこんなことをしてはいけない。

1970年代のウーマンリブでしょ。米国ですら「男が好きな女を守る」という歌が大ヒットする男中心の時代だった。オフィスでは、男と戦う・威嚇するという闘争心をあらわにした女性が、それ用に考案されたカクカクに角張った、濃紺か黒のスーツに身を固めて出社していた。しかし、このファッションブームはすぐ立ち消えとなった。リブ対応スーツを着た女は、オフィスの男たちから全くモテず、当の本人たちが着用を断念したからである。いつの世も「かわいい女」がモテる(笑)。丸みを帯びた「女性的な色使い」のファッションが復活して現在に至る。

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「私は、近くの朝鮮学校の生徒と小競り合いをするような非行少年でした。私たちは、彼らとよく戦ったものです。学習院の制服を見ると彼らは私たちに向かってきました」。
「排外主義的行動を肯定的に述べるのは、皇族としていかがなものか」

下線部に注目。殴りかかってきたのはZさんたちです(爆)。貴重な証言をありがとうございました。

殿下が自分のことを「非行少年」と表現している。彼らは、こちらが日本人であると見定めて襲ってくる。一体どちらが間違った民族主義の極右で排外的なんだか。従って自分についても相手についても、「排外主義的行動を肯定的に述べている」わけではない。

1950年代、60年代といったら、南出身のZさんたちすら「韓国」と言わなかった時代。当時の韓国は最貧国で、北朝鮮は工業国で強かったから、プライドがやたら高いZさんたちは決して韓国といわなかった。韓国焼肉は存在せず、朝鮮焼肉。韓国語とはいわず朝鮮語。1980年代半ばまで、すべてがこの調子だった。

そして、北朝鮮から陰に陽に指示されたZ集団が、日本各地で暴れ回っていた。昭和史に残る治安事件が、数多く発生した。工作員の、海からの不法上陸事件多数が記録されている。70年代でもその傾向は普通に強く残っていた。

戦後の放送コードで戦前の軍歌は流せなくなっていたが、朝鮮学校では軍隊マーチを連日大音量で流し、生徒たちに軍隊流の行進を繰り返し練習させていた。全員で足並み揃え、わざとドスンドスンと足音を立てて校庭を何周も回る。音楽と地響きが遠くまで伝わった。凄かったよー。区市役所の公害(騒音)担当も警察も注意すらできなかった。カ◯ア◯とか、歩いているだけなのに、いきなり◯りかかってくるとかも。高齢者は知っている。

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若い世代が昭和を知らないのをいいことに、12年も前に亡くなった故人を、時代背景、および当時の主流だった思想を丁寧に削除しながら歪曲引用して評論して、この先生には悪意があると思う。

前にも書いた通り、いくら男系論者の悪口を書いても、「女性天皇ならば日本が安泰になること」の証明にはならない。

たとえば、森先生の提言を100%実現するような憲法典範を整えたあと、寛仁親王のように「宮中祭祀が急がし過ぎて、アタシがやりたい社会貢献をすることができない。アタシは天皇なんて真っ平ごめん。皇族なんてクソくらい。辞めてやる」と女性皇族がある日突然ぶちまける事件が発生し、あとは寛仁親王と似たような醜聞をいくつも撒き散らしながら死んでいくシナリオは、十分に発生し得る。

男性皇族だから各種の疑惑が発生し、女性皇族ならクリーンということも、あり得ない。男女平等になるということは、そういうことである。

女性天皇擁立は、決して天皇にならないことが既定路線の現役女性皇族にとっては、本人の意志ではなく制度によって自由を奪われる「重大な不利益変更」になる。しかも不利益は終身で続く。

平成の天皇は、意識がはっきりしているうちに生前退位を強行し、うまく逃げた。しかし、生前退位を表明するか・しないか悩んでいるうちに「意思表示しなければならないことを忘れてしまい」、あとは、ずるずると死ぬまで天皇を続ける不幸は、十分に想定できる。

不利益変更には、本人の自由意志による同意が必須です。メディアでやんやと騒ぎ立て、ノーと言いにくい雰囲気を醸成したうえで言わせたイエスは無効です。

そもそも制度(憲法法律)が原因で個人の自由・幸せを奪うことは間違いであり、そのような規定は削除しなければならない

森先生は、アイコはじめ女性皇族方が、一体いつ不利益変更に同意したのか、制度変更を提唱する前に、そのソースを調べて記事にすべきであろう。

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