「水槽に手を突っ込んで熱帯魚を取りだし、醤油をつけてパクッと食べた」上皇さまの“豪快”な横顔《旧皇族が証言》【きょう91歳】
「水槽に手を突っ込んで熱帯魚を取りだし、醤油をつけてパクッと食べた」上皇さまの“豪快”な横顔《旧皇族が証言》【きょう91歳】
12/23(月) 6:12配信
文春オンライン
https://news.yahoo.co.jp/articles/ce9b0b35f5262f14bb6550581660befd79158d3e
上皇さまは12月23日、91歳の誕生日を迎えられた。旧皇族・伏見宮家当主だった伏見博明氏(終戦時、伏見宮博明王)は、上皇さまの三従兄にあたり、日光に疎開する前の幼少期から、ともに過ごす時間も多かったという。
◆◆◆
上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開
戦争末期、中等科時代の昭和20(1945)年3月には日光に特別疎開しました。その前から上皇さまは日光の田母沢御用邸に疎開。私と同学年の生徒は山形の鶴岡に疎開したのですが、私と朝鮮王朝の直系だった李玖さんは、上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開したのです。
日中は金谷ホテルで李玖さんと一緒に授業を受けました。先生が付き切りで教えるので勉強は大変でしたよ。今でも上皇さまに「なんで僕は同級生と離れて日光にご一緒しなければならなかったんですか」と言うと、上皇さまは笑って「知りませんよ」とおっしゃるんです(笑)。
上皇さまは授業が終わると御用邸にお戻りになります。私は毎日豆が入ったご飯を食べていましたが、上皇さまは御用邸で違ったものを召し上がっていたのではないでしょうか。
授業のない日などにはホテルの近くを流れる大谷(だいや)川で上皇さまと釣りをしたのを思い出します。釣った魚は料理してもらって食べました。
ラジオからは毎日のように「東京に焼夷弾が落ちた」といったニュースが流れてきましたが、なんとなく「殿下と一緒にいる限りは安心なのかな」と思っていました。ところが、一度も見たことのなかったB29が7月に一度だけやってきた。これは危ないというので、私と李玖さんは那須に移り、上皇さまは御用邸から奥日光の南間ホテルに疎開されました。そこで上皇さまとは別れたのです。
だから私が玉音放送を聞いたのは李王家の那須の別荘で李玖さんと一緒でした。天皇陛下はどうなるのだろう、それが一番の心配でした。後で聞いた話ですが、敗戦直前、皇統を護るため北白川宮道久王を四国の山中にかくまおうという計画があったそうです。今でもかくまおうとしたその家が残っていて、私も何度か行きました。本当に山奥でね。上皇さまにそのお話をしたことがあるんですが、上皇さまは「じゃあ見に行きたいね」とおっしゃっていました。
熱帯魚をパクリ
敗戦後の昭和22年、伏見宮家をはじめ宮家が一斉に皇籍を離脱しましたが、そのすぐ後も、上皇さまと千葉にあった御料牧場に1泊して乗馬をしました。一緒に風呂にも入りました。
上皇さまは子供のころから動物がお好きで、高等科時代は馬術部、馬は皇居にもたくさんいました。しょっちゅうポロをしていて、お誘いの電話が頻繁にかかってきました。途中から私がゴルフにハマってしまい、お断りを続けたらお誘いの連絡が来なくなってしまいましたが……。
上皇さまといえば、ハゼのご研究でよく知られていますが、ご成婚の前に一度、御所の水槽で飼っている熱帯魚を見せてもらったことがあります。金魚くらいのサイズの小さな熱帯魚でした。2人で見ていたら、上皇さまが突然、「食べると美味しいんだよ」とおっしゃって、侍従に醤油を持ってこさせたのです。私は「熱帯魚は観賞するものではないのですか」とお伝えしたのですが、上皇さまは構わず水槽に手を突っ込んで、1匹を取りだすと、醤油をつけてパクッと食べてしまったんです。そして「きみもどうぞ」と勧めるものですから、断るわけにもいかず、同じようにして食べました。美味しい、まずいなどと言っていられる状況ではなかった(笑)。生きた魚が喉を通っていくのが動きでわかりました。
※本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 皇太子明仁 日光疎開の思い出 」)。全文では、学習院で戦争ごっこをしたエピソード、皇族の特殊な家庭環境、伏見氏が感じる上皇さまの「覚悟」などについても語られています。
この最後のエピソードは何のつもり?
生魚をそのまま食べると、妙な寄生虫が体内で湧いて、内蔵、眼球、脳へと広がっていき、治療法もなく、死ぬよ。
まあ、このようにして天皇制が自滅することがあっても、私は別に構わないと思うが(苦笑)。
12/23(月) 6:12配信
文春オンライン
https://news.yahoo.co.jp/articles/ce9b0b35f5262f14bb6550581660befd79158d3e
上皇さまは12月23日、91歳の誕生日を迎えられた。旧皇族・伏見宮家当主だった伏見博明氏(終戦時、伏見宮博明王)は、上皇さまの三従兄にあたり、日光に疎開する前の幼少期から、ともに過ごす時間も多かったという。
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上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開
戦争末期、中等科時代の昭和20(1945)年3月には日光に特別疎開しました。その前から上皇さまは日光の田母沢御用邸に疎開。私と同学年の生徒は山形の鶴岡に疎開したのですが、私と朝鮮王朝の直系だった李玖さんは、上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開したのです。
日中は金谷ホテルで李玖さんと一緒に授業を受けました。先生が付き切りで教えるので勉強は大変でしたよ。今でも上皇さまに「なんで僕は同級生と離れて日光にご一緒しなければならなかったんですか」と言うと、上皇さまは笑って「知りませんよ」とおっしゃるんです(笑)。
上皇さまは授業が終わると御用邸にお戻りになります。私は毎日豆が入ったご飯を食べていましたが、上皇さまは御用邸で違ったものを召し上がっていたのではないでしょうか。
授業のない日などにはホテルの近くを流れる大谷(だいや)川で上皇さまと釣りをしたのを思い出します。釣った魚は料理してもらって食べました。
ラジオからは毎日のように「東京に焼夷弾が落ちた」といったニュースが流れてきましたが、なんとなく「殿下と一緒にいる限りは安心なのかな」と思っていました。ところが、一度も見たことのなかったB29が7月に一度だけやってきた。これは危ないというので、私と李玖さんは那須に移り、上皇さまは御用邸から奥日光の南間ホテルに疎開されました。そこで上皇さまとは別れたのです。
だから私が玉音放送を聞いたのは李王家の那須の別荘で李玖さんと一緒でした。天皇陛下はどうなるのだろう、それが一番の心配でした。後で聞いた話ですが、敗戦直前、皇統を護るため北白川宮道久王を四国の山中にかくまおうという計画があったそうです。今でもかくまおうとしたその家が残っていて、私も何度か行きました。本当に山奥でね。上皇さまにそのお話をしたことがあるんですが、上皇さまは「じゃあ見に行きたいね」とおっしゃっていました。
熱帯魚をパクリ
敗戦後の昭和22年、伏見宮家をはじめ宮家が一斉に皇籍を離脱しましたが、そのすぐ後も、上皇さまと千葉にあった御料牧場に1泊して乗馬をしました。一緒に風呂にも入りました。
上皇さまは子供のころから動物がお好きで、高等科時代は馬術部、馬は皇居にもたくさんいました。しょっちゅうポロをしていて、お誘いの電話が頻繁にかかってきました。途中から私がゴルフにハマってしまい、お断りを続けたらお誘いの連絡が来なくなってしまいましたが……。
上皇さまといえば、ハゼのご研究でよく知られていますが、ご成婚の前に一度、御所の水槽で飼っている熱帯魚を見せてもらったことがあります。金魚くらいのサイズの小さな熱帯魚でした。2人で見ていたら、上皇さまが突然、「食べると美味しいんだよ」とおっしゃって、侍従に醤油を持ってこさせたのです。私は「熱帯魚は観賞するものではないのですか」とお伝えしたのですが、上皇さまは構わず水槽に手を突っ込んで、1匹を取りだすと、醤油をつけてパクッと食べてしまったんです。そして「きみもどうぞ」と勧めるものですから、断るわけにもいかず、同じようにして食べました。美味しい、まずいなどと言っていられる状況ではなかった(笑)。生きた魚が喉を通っていくのが動きでわかりました。
※本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 皇太子明仁 日光疎開の思い出 」)。全文では、学習院で戦争ごっこをしたエピソード、皇族の特殊な家庭環境、伏見氏が感じる上皇さまの「覚悟」などについても語られています。
この最後のエピソードは何のつもり?
生魚をそのまま食べると、妙な寄生虫が体内で湧いて、内蔵、眼球、脳へと広がっていき、治療法もなく、死ぬよ。
まあ、このようにして天皇制が自滅することがあっても、私は別に構わないと思うが(苦笑)。
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